サクラチトセオー  
トニービン
サクラクレアー
誕生日 H2.5.11生
厩舎 美浦・境 勝太郎
馬主 鰍ウくらコマース
生産者 静内・谷岡牧場
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ここでは、1995年の天皇賞(秋)を強烈な末脚で差しきったサクラチトセオーのことについて語ります。

実はサクラチトセオー(以下チトセオー)の事はダービーまであまり注目していなかったのでの印象があまり残っていないため、軽く流してありますごめんなさい。

1、好素質

 チトセオーは3歳時2戦2勝の好成績を上げ(繰り上げ1着というラッキーもあったが)一躍注目される存在となったが足元に慢性的な脚部不安を抱え皐月賞出走はかなわなかったが、なんとか出走できたNHK杯(東京 芝2000m)では直線よれながらもなんとかダービー出走切符(3着)をもぎ取った。

 サラブレッドの檜舞台「日本ダービー」では皐月賞1番人気で4着に敗退したものの栄光のダービージョッキーを目指す柴田政人J騎乗「ウイニングチケット」、その皐月賞で見事な末脚で差しきった武豊J騎乗「ナリタタイシン」や朝日杯3歳S、皐月賞ともにあと一歩の2着の「ビワハヤヒデ」の3頭が上位を形成しチトセオーは関東の秘密兵器と目され6番人気で檜舞台に上がった。

 レースは、ウイニングチケットが鮮やかに直線抜け出し、2:25:5の好タイムで快勝、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンも上位入線(2,3着)した、チトセオーは4角で先頭集団にとりついたものの直線ではまったく見せ場もなく11着に敗れた。

 その後チトセオーは慢性的な脚部不安のため休養に入り、競馬場に戻ってきたのは、年が明けて2月になった。

2、一流馬へステップアップ

 節分賞(東京 ダート1400m)で無事に復帰を果たした(3着)チトセオーは、中1週でテレビ埼玉杯(中山 1600m)に出走、レースでは、900万クラスでは明らかに格上のレース運びで見事に勝利した。このテレビ埼玉杯をみて私はチトセオーの事が好きになった、この時のレース振りを観て「この馬はいつかきっとGTを勝てる」と友達にいいてたのを覚えている。

 さて、次走に予定されたのは、ナントGUの「中山記念」、私は、「900万を勝ったばかりでもいいレースをしてくれるハズ」と思って友達に「次の中山記念 チトセオーが勝つと予想していた。

 中山記念では、私の予想通り、いやそれ以上に楽勝した。

900万−GUを連勝という離れ技をやってのけたチトセオーはナント!オープン特別のエイプリルS(中山芝 2000m)に出走した。「GUを勝った馬がオープン特別?そんなの楽勝するに決まってる!」と友達に話しをしたが、レースでは外から追い込むチトセオーを見て「よしっ!楽勝!!」と思ったその瞬間、単勝シンガリ人気の「アンダーキング」に内をすくわれて2着と敗れてしまった。とても残念「競馬は何が起こるかわからないな〜」なんてしばらく唖然としてしまったが、これも競馬だと思った。

 その後メトロポリタンS(東京芝 2300m)に出走し何の問題もなく勝利した。

そして、宝塚記念へと出走した。人気は同期のビワハヤヒデが断然の1番人気、チトセオーは4番でレースを迎えた。レースではビワハヤヒデが圧倒的な強さで勝利し、チトセオーは見せ場もなく6着に敗れた。私はまだ1戦級とは力の差があると感じた。

3、充実期を迎えて

宝塚記念の後チトセオーは休養に入り、秋初戦には京王杯オータムハンデ(現京成杯AH)に出走してきた。主戦騎手小島太が騎乗停止のため鞍上には的場均が騎乗した。レースでは後方待機し直線大外から豪快に末脚を伸ばし見事に勝利した。しかもレコードタイム1.32.1をマークした。このレコードタイムは当時のJRAレコードタイムで1999年関屋記念でリワードニンファが1.31.6を記録するまで約5年間輝いていました。2000年9月現在の中山1600mのレコードは今もなおチトセオーです。

天皇賞(秋)を迎え当然私のボルーテージは最高潮!1600mとは言え日本レコードをマークした今ならきっと宝塚記念の無念ははらせると思っていた。まさにその思いが届いたのか、直線内から伸びかかって「いける!」と思ったその時、ネーハイシーザーが内によれてチトセオーの行く手を阻み6着に敗退。この時ネーハイシーザーは勝利したが騎乗した塩村騎手は制裁金5万円の処分に課され何とも後味の悪い一戦となってしまった。私は来年必ず天皇賞を勝つ!と友達に言いまくっていた。

天皇賞は不完全燃焼で6着に終わったが続くオープン特別の富士ステークスでは楽に勝利し少しだけ天皇賞の鬱憤を晴らした。

1994年のフィナーレを飾る有馬記念。人気は史上最強馬の呼び声が高い三冠馬ナリタブライアンにこれも史上最強牝馬と目されるヒシアマゾンの対決に沸いていた(だがヒシアマゾンは6番人気)。チトセオーは5番人気とまずまずの評価を受けた。結局レースは1着ナリタブライアン−二着ヒシアマゾンで決まり、チトセオーは早めにナリタブライアンに並びかけるも及ばず6着に敗れた。これで今年の秋は1着と6着交互に成績を残し競馬界のイチローとあまり嬉しく!?ないネーミングもついてしまった。

1994年はGTには手が届かなかったが重賞を2つも勝ってまずまずの一年だったのではないかと思ったが1995年こそはGTを勝ってくれると信じていた。

4、今年こそは!

1995年初戦アメリカジョキークラブカップ(AJCC)にチトセオーは出走し危なげなく勝利し、エリザベス女王杯を勝利したホクトベガとの馬番連勝が\6,720もつきとても懐を暖かくさせてもらった

その後、昨年重賞初制覇を成し遂げた舞台中山記念に堂々の1番人気で出走した。GT制覇を目標としているチトセオーにとってとりこぼせない一戦だ。がしかしフジヤマケンザンの2着に敗れてしまった。

そしてGTの大舞台安田記念(G1)に出走してきた。チトセオーは2200mのAJCCを勝利しているもののベストの距離は1600m〜2000mだと私は思っていた。現に1600mは日本レコードで勝利した京王杯AHを初め、新馬、ひいらぎ賞、TV埼玉杯とマイル戦負けなし(繰り上がりの1戦もあるが)、対して2000mを越えた距離では、先に述べたAJCCを初め2300mメトロポリタンSを勝利しているが、宝塚記念、有馬記念のレースを見ていると一線級とはちょっといいづらいレース振りなのは否めない。さらに直線が長い東京競馬場とくればGT制覇は目前!とみんなも思ったのだろうかなんと1番人気に推されたのだった。レースではチトセオーは最後方待機、タイキブリザード、ハートレイクが直線抜け出しチトセオーが大外を豪快に1頭抜いてまた1頭抜いてグングン先頭のハートレイクに迫ってきたところがゴールだった、写真判定の結果2着に敗れてしまった。しかし直線で見せた豪脚は秋の天皇賞につながるものだと思い秋に大きく期待を持った。

安田記念の後宝塚記念でも1番人気に推されたが全く見せ場もなく7着に敗れた。(このレースでライスシャワーが骨折−競走中止−安楽死になってしまったのであまり振り返りたくない)

6歳秋になり秋初戦には毎日王冠に出走するもののあいにくの雨で持てる力を存分に発揮出来ずに4着に敗退した。(なんでサクラの馬はに弱いのだろうか??)

5、悲願のGT制覇へ

さあ!昨年の雪辱戦だ!天皇賞(秋)。私は一度も行ったことがない東京競馬場にチトセオーの勝利を見に出かけた。1番人気には昨年の年度代表馬ナリタブライアンが推されていたが、どうも本調子にないように見えた。

初めて東京競馬場に行ったがこんなに人がいるんか?とビックリした。見物場所はゴール前に陣取った。時は経ち7レース終了後に友達の一人が「もう天皇賞の馬券勝っておいた方がいいぞ」といわれて早々と馬券を購入した、単勝 1番 サクラチトセオー \1,000と本当の勝負馬券 馬連 1−4 \7,000 とチトセオーから好きな馬ホクトベガ、ステージチャンプ、ゴーゴーゼットの馬連を買った。後は直前に購入しておけばいいかと財布の中の1万円札3枚を見ながらまたゴール前へと戻って行った。天皇賞の前のレースが終わり、私は本当の勝負馬券馬連1-4で硬いと自信が確信に変わり馬連1−4¥30,000を塗りつぶしてさあ買いに行こうかなと思ったその時、人の波が前へ前へ押し寄せられてしまい、これじゃあ買いに行ったら友達とはぐれてしまう可能性が高いから購入はやめた。が観戦場所としては絶好のポジションにたどり着いた。

初めてライヴで聞くGTファンファーレが府中の杜にこだまする。スタンドの興奮は最高潮まで達しゲートが開いてスタートが切られた。1枠1番のチトセオーは予想通り後方待機で最後の直線でまたあの豪脚を爆発させてくれることを信じてレースを見守った。各馬は4コーナーをカーブする時ナリタブライアンがスゥーといい感じで先行集団にとりつき「あぁやっぱりナリタブライアンかぁ」と思ったその瞬間大外に持ち出した白い帽子が見えた!チトセオーだ。奇しくも春の安田記念と同じような展開になり一頭また一頭とグングングングン真一直線に先頭のジェニュインに襲いかかる!「差せ!差せ!!勝て!勝て!!」と私は有りたっけの声を出した。その思いが届いたのか?内で必死に粘るジェニュインと外から猛然と追い込んだサクラチトセオーの馬体があったその瞬間がゴールだった。周りは「どっちだ?」ととてもきわどい勝負だったが私はチトセオー天皇賞獲った!!確信し友達と喜びを分かち合っていた、電光掲示板にはやはり”写”の文字が点灯した。

 どきどきしながら”写”が消えるのを待つ、絶対チトセオーが勝っている!と確信しているのだが、もし届いてなかったら、、、と弱気にもなりながらまだかまだかと結果を待つ。””の文字が消えた1着の所にが点灯!!「勝った!チトセオーが勝った!!チトセオーがGT勝った」と何度もつぶやきながら涙した。

あっ!1-4!?」と胸ポケットにしまってあったマークシートを取り出し苦笑いを浮かべていた。レース後騎乗した小島太騎手が「あんなに追ったのは何十年振りかな?」となんともお茶目なコメントを残した。それほど小島太騎手も嬉しかったんだろうなと思った。

ついに悲願のGTホースになったチトセオーはジャパンカップかそれともマイルチャンピオンシップのどっちに出てくるのかワクワクしていたが、結局有馬記念一本に備えた。

6、引退レース

有馬記念で引退が決まっていたチトセオーは4番人気という微妙な評価がされた。レースは菊花賞馬マヤノトップガンの逃げで始まりチトセオーは例の如く後方待機に出た。4コーナーをカーブし直線に向いてマヤノトップガンが突き放しにかかりそのまま先頭でゴールインした。チトセオーは直線よく伸びたものの先行したマヤノトップガン、タイキブリザードをかわせず3着に敗れた。

予定通り有馬記念で引退した翌年1月引退式を行い北海道の静内スタリオンステーションで種牡馬生活を送ることになった。

、代表産駒 ラガーレグルス

1999年チトセオーのファースト・クロップが競馬場でデビューした。私はGallopのペーパーオーナーで”ラガーレグルス”を指名して見事に当選し応援している。

デビュー戦、オープン特別と2連勝して一躍有力馬へと成長した、その後デイリー杯3歳S(G2)ではレジェンドハンターの逃げを捕まえきれずに2着に敗退、続く朝日杯3歳S(G1)では落鉄の影響から7着に敗れた。その後中1週で出走したラジオたんぱ杯3歳S(G3)では父譲りの末脚で見事に勝利し一躍クラシック候補になった。しかしこの後の共同通信杯4歳Sではハイパー出遅れをかまし、最後はよく伸びたが7着、弥生賞では、ゲートを普通に出て3着し、皐月賞では3番人気に支持され私も人にはいえないくらいレグルスから馬券を買っていた、、、、。ゲートが開くコンマ何秒か前にレグルスは立ち上がってしまってそのままゲートから出ることなく皐月賞は終わった、、、、。その後ダービーに向けゲート再審査に臨んだレグルスだが心ない競馬ファンの妨害もありレグルスは東京競馬場での再審査は不合格となり、一生に一度大舞台日本ダービーに上がることが出来なかった。レグルスはその後札幌記念へ向けてまたまたゲート練習を積んでいたが、その練習中にケガをして結局出走回避、今現在の次走は未定である。

父サクラチトセオーの代表産駒として、さらには急死したトニービン系の発展を担うラガーレグルス早い復帰が待たれる。頑張れレグルス!

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〜読まれた方の感想〜

ひーろーさん

チトセオーが勝った天皇賞は、初めて本気で馬券を買ったレースだったので懐かしかったです。あの時はタンホイザと心中しました。(2000/11/14)

Nさん

あの天皇賞・秋は追い込み馬の神髄のようなレースでしたね。私はあのレースでは3番手評価(◎ナリタブライアン ○アイリッシュダンス ▲マイシンザン=取消 ×サクラチトセオー)でしたが、非常にかっこいいレースだったと思います。引退レースの有馬記念。私は距離を考え無印でしたが、追い込んでくるチトセオーには胸が熱くなりました。太騎手がゴール後、ガクッとクビを落とした姿が非常に印象的です。種牡馬として、自身を超えるような馬を出して欲しいですね(2001/02/01)。

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